210315_虚無虚無プリンの春

・学振は辞退した。なんだかんだで踏ん切りがつかずに、科研費の申請までしたのだけれど、3年後に職も博士号もない上にさして業績も出せず精神を壊しきっている未来が十分に見えたのでやめた。周囲を見ていて,研究者のポストは他人に気を遣わず,自分のやりたいことだけを極められる精神の太い人間にのみ与えられるのだと思う。心の底から死んでほしいと願える人間と,修士課程の2年間で5人出会った。
・学振を辞退するのは意外と面倒で,指導教員にわざわざご足労頂いたり研究科長印を押していただくために事務に押しかけたりとバタバタする数日間を過ごした。その後は完全に虚無で,たまにRAの仕事をしたりテスト理論の勉強をしたりPISA調査のデータを触ったりして満足してはダラダラしていた。
・口頭試問は思っていたよりも穏当で無茶振りがない20分間だった。出来が悪かったからだと思う。

・引っ越した。知り合いの親類が住んでいたが,その主が亡くなったために家財が残されたまま空いたという部屋を借りた。霞が関まで一本で行けるうえに相場より安く借りられるのがよかったのだが,残された家財を分別するところから始まるため意外と大変だった。結局自分ではどうにもできないところはハウスクリーニングを依頼してどうにかするしかなかった。意外と高くついた。
・引っ越したら両親が両親面し始めたので憎しみが再び燃え上がりつつある。両親面したいなら博士課程に進もうとした私を「穀潰し」と罵るのを止めればよいのになと思っている。社会にさして適応できない人間が社会に適応できなくてもどうにかやっていける道を模索した結果が大学院進学だったのだけれど,両親は「社会に適応した人間と同じように生きること」を私に求めるので仕方がない。私から見て心穏やかに生きていける道は,彼らにとって「いつまでも仕事をしない穀潰し」や「社会の役に立たないことを偉そうに言うだけで金が手に入るゴミみたいな存在」に見えるのである。私はニコニコと精神を削りながら社会に適応しているふりをして日々を過ごさなければならないのだ。「親離れ」は健全な親のもとに育ったという強い前提条件が必要とされる。彼らには「投資」という考え方はないから,博士課程進学は「消費」にしか見えないのだ。なんで私はこんな土民のもとに生まれたのだろうか。離れたいのに離れられない。
・働き出して適応できなかったら(十中八九適応できないのだけれど),やっぱり親が一番恥をかくかたちで人生を終えようと思う。

210107_修論ほぼ終わりの巻

修論がほぼ終わった。明日提出なのでどうあがいても明日終わらせなければならず、明日もし何かあってもいいように現状の最新版をgmailの送信予約機能に載せておいた。要旨は既に出した。
・本当にどうにもならないというか、わかりやすい目標がないと頑張れない人間だなということを思い知らされた。論文誌のように分かりやすく結果が出るような形であればもう少し頑張れた気もするけど、そもそも2020年が忙しすぎて後半はガス欠気味であり、頑張ろうとしてもなかなか難しかったように思う。
・公務員か博士課程かを選ばなければならないのだけれど、おそらく9割方前者だと思う。ただ少し解決しなければならない問題があるので、来週以降片付ける。

201225_学振DC1通りました

・学振DC1通りました。社会科学では採択率20.4%だったようです。

・tスコアが知りたかったんだけど,採択された場合は分からないと聞いて悲しんでいる。

・学振DC1の書き方,あんまり解説しようがないので解説ブログは書かない予定ですが,完成までのスケジュールくらいは見せても罰が当たらないと思っている。

201123_修論が埋まらない

・他大学の人からも言われてそうなんだ~~と思っていたけど,改めて修論10万字って多くないですか……?とひとりでキレている。もう今の字数で十分言いたいことは言えるのに,なんとなく体裁を合わせるために頑張って,論文の前提になる話から書いている。おもんなさすぎて手が震えて仕方がないが修論は書かねばならない。

・あとまた後輩が結婚した。何がいい夫婦の日だよ,一生幸せになってしまえバ~~~~カという気持ちである。結婚してぇ。気づいたら親が結婚した年をいくつか超えてしまった。すまんな両親。

・両親は私に恋愛をしてほしいらしいが,結婚はやめておいてほしいらしい(失敗するので)。うるせえ。

201121_書評がタイトルの時点で面白すぎて震えている

・もうすぐ出る『教育社会学研究』に掲載予定の書評がこういう感じなんだけど,

【書 評】

苅谷剛彦[著]『追いついた近代 消えた近代:戦後日本の自己像と教育』……竹内 洋

竹内洋氏の『追いついた近代 消えた近代』の書評に応えて:日本の近代はどこまで日本的か?……苅谷 剛彦

www.hanmoto.com

 

どっかでこの構図見たな~と思ったら『日本のメリトクラシー』の書評のタイトルだった。

苅谷剛彦. (1997). 日本のメリトクラシーはどこまで日本的か?. 社会学評論, 47(4), 491-497.

まだ『教育社会学研究』が手元にないので何も言えないけど(あと苅谷先生の本をまだ読んでいない),ちょっともうこの時点で面白すぎて震えている。

201120_認知がゆがんでいるから葛藤理論を信奉する……?

修論。早稲田の図書館に来るとそれなりの集中が保たれメンタルが壊れないことを知っているので,湯島から早稲田までレンタサイクルで爆走してきた。

修論の理論パートを頑張っている。竹内洋の『日本のメリトクラシー』を結構な割合で参照する論文なんだけど,竹内先生の文化的再生産論や葛藤理論への否定的な視線が厳しい。でも日本人の文化資本の高低は「日本人らしさ」への同調度で示されるってそれは無理があるのではないですか……?と思う(ここが私の修論のミソである)。竹内論文が日本の文脈で文化的再生産論を語ることにあまりにも否定的なので,こちらの認知がゆがんでいるのではと思ってしまった。いや認知がゆがんでいるから葛藤理論信奉しちゃう説あるな(ない)。

・とりあえず修論は形だけ出来上がっていればいいや(博士課程までの研究奨励金を貰っている人間が修論で落ちるなんてことあるだろうか,いや修論審査通らなかったらクソ面白いな)という気持ちになった。

201118_修士論文どうしてこうなった

・字数的には5万字くらい,内容的には3割しか終わっていない。未着手の分析があと1つある。

・一方で,知っているDの先輩が大きいジャーナルに一気に通していたりして,修士課程での積み重ねはDになったら一気に出てくるんだろうなと思った。私はこの2年間何をしていたんだ……。

・「終わった論文がいい論文」は本当に至言で,終わらなければ査読にも出せないのであった。完。