200416_『近代とはいかなる時代か』第1章メモ

■序論
・このエッセイは「文化論と認識論を加味したモダニティの制度分析」である。
・モダニティとは,17世紀以降のヨーロッパに出現した,社会生活や社会組織の様式である。その特徴はとりあえずブラックボックスに入れておく。
・モダニティの終焉と「ポスト・モダ二ティ」の始まりが指摘されている。 ポスト・モダ二ティは,既存の社会の在り方の終焉や「物的財を中心としたシステムから情報に中心を置くシステムへの移行」という捉えられ方をすることもあるが,もともとの提唱者であるリオタールは「哲学上や認識論上の問題」,具体的には「認識論を基礎づけようとする努力」や「人間が画策した進歩に対する信仰」からの転換としてポストモダニティについて考察している。リオタールは,これまで人類が信じてきた「動かしがたい過去と予測可能な未来を担った存在として歴史の中に身を置く際の手段となる」,「壮大な物語」(p.14)が失われたこと,そしてポスト・モダンという見地からは「複数の異質な知を受容」し,「科学が特権的な地位を占めることはない」と論じている。
・リオタールへの批判は,人類が一般化が可能な認識(=科学的な認識)を獲得できることをさらに証明すべきという観点からなされる。しかし,ギデンズは,壮大な物語(本書では「方向感覚」)が喪失したように感じられるのは,人間自身の「自分たちには完全に理解できない,アンコントローラブルな事象世界に巻き込まれている」意識に起因すると指摘する。なぜそうなったかを分析するには,モダニティそのものの本質についてもう一度考察する必要がある。「モダニティがもたらした帰結がこれまで以上に徹底化し,普遍化していく時代に移行しようとしている」からである。
 
■モダニティの非連続性
・人類の歴史は「非連続性」を孕んでいると指摘されてきた。もちろんマルクスの唱える発展段階は「非連続性」に基づいているが,本書では「近代という時代と結びついた特定の非連続性,ないし一種の非連続性」を問題とする。
・モダニティにおける生活様式は,それまでの社会秩序の類型をすべて一掃した。もちろん伝統的なことがらと近代的なことがらの間には連続性があるものの,モダニティ自体の変動とその影響があまりにも大きいために,モダニティ以前についての認識は参考にならない。
・モダニティが示す非連続性は,社会進化論という「大きな物語」の影響を受けてきたために十分に認識されてこなかった。「ひとまとまりの意味を成す」形式で歴史を語る進化論的話法は,歴史自体の連続性を強く印象付けてしまう。モダニティを分析していくうえで,この連続性を脱構築する(=「歴史を,一元的なもの,つまり,一律な構成原理や変容原理の反映とみなすわけにはいかない」)ことが必要である。ただし,すべての出来事がバラバラに存在するわけではない。歴史の転換期にはその特質を特定でき,一般化が可能になるエポックメーキングなエピソードを見出すことができるからである。
・モダニティにおける非連続性は,(1)社会の変動の速さ(特に科学技術),(2)変動の広がり(地球上のすべてに及ぶ),(3)近代的制度の本質(「国民国家システム」「資本主義」のような異なる原理によって秩序付けられている)の3点から説明できる。
 
 
■安心と危険,信頼とリスク
・モダニティの特質について追及する際,≪安心-危険≫≪信頼-リスク≫の問題に議論を費やす。
・モダニティは「人々が安心でき,努力しがいがある生活」を享受できる好機を生み出してきた。一方で,陰鬱な面もある。
・モダニティの生み出した好機は,古典的な社会学を生み出してきた人々が強調してきた。マルクス人間性あふれる社会システムの出現を思い描いていたし,デュルケームは分業と道徳的個人主義との連係によって,調和のとれた充実した社会生活が実現することを願っていた。ヴェーバーだけは近代世界が官僚制の拡大という代償を払ってのみ物質的な向上を達成できると考えていたが,ヴェーバーの予想ですら十分にモダニティの陰鬱さを説明できたわけではなかった。例えば工業化が大規模な環境破壊をもたらすとは考えなかったし,政治権力の強硬な行使(モダニティの媒介変数となる制度は全体主義を生じる可能性を内包している)や,一般的な現象としての軍事力の発達(「戦争の工業化」)も予想できなかった。彼らはモダニティを平和主義的秩序として考えたものの,工業化を基底とした核兵器の発達や軍事衝突により人類が全滅するかもしれないとは考えなかった。
 
 
社会学とモダニティ
・これまでの伝統的な社会学が,近代の諸制度について納得いく分析を阻んできた原因として,(1)モダニティの制度診断,(2)「社会」の定義,(3)社会学的知識とモダニティの特質との結びつきの3点が挙げられる。
・まず(1)について,社会学の伝統的な理論はモダニティの特質を「ほかのすべてに優先する単一の返還力」に着目する傾向にあった。例えばマルクスやその影響を受けた論者は,モダニティに新しく出現した秩序を<資本主義的秩序>で説明したし,デュルケームは≪工業主義≫,ヴェーバーは≪合理的資本主義≫で説明した。しかし,これらは相互に排除しあう特性描写とみなすべきではなく,≪制度面で多くの特性を示≫すものであり,ひとつひとつの特性はモダニティにおいて重要であると考えられる。
・(2)について,社会学における「社会」はあいまいな概念であるが,「社会関係の個々のシステム」を指し示している。しかし,社会学の論者は「社会」を暗黙の裡に近代社会を念頭に置いている(つまり社会≒国民国家である)し,パーソンズの秩序問題はシステムを一つにまとめるものではなく,社会システムが時間と空間をどのように結び付けていくのかの問題として≪時空間の拡大化≫の条件として,制度がどのように位置づけられているのかを検討する必要がある。
・(3)について,社会学は「近代社会に対する認識を,予測や統制のために活用できる形で生み出す学問」として理解されてきた。この問題について,物理科学に倣って社会制度の統制をするための情報を供給する道具的学問なのか,社会の行為主体の自己理解を通して社会の中に浸透していく必要があるのかという議論があるが,近代における社会学社会学の研究対象との関係は「二重の解釈学」の問題として検討すべきである。社会学的な分析を通じた認識は,再び社会学の対象である社会に還元されるし,社会学による概念や知見はモダニティの在り方自体に影響していると考えられる。
 
■モダニティ,時間,空間
・前近代の文化は,いずれも時間の計測手段を所有していた。時間と場所は不可分であった。機械時計の発達により,時間測定の均一性が時間の社会的管理の均一性を生み出し,暦は標準化された。「時間の空白化」は≪場所≫と≪空間≫の分離という形で理解できる。「場所(場面)」は社会活動を取り巻く物理的環境が,地理的に限定されていることを指す。前近代までは≪場所≫と≪空間≫は切り離せないものだったが,モダニティでは≪場面≫が場面から完全に距離を置く社会的勢力の影響を徹底的に受けて形作られることになる。
・「空白な空間」は,(1)個人の地理的な感覚とは独立して空間を表示できるようになったこと,(2)様々な空間がその構成単位ごとに別の空間に置き換えられるようになったことである。この2つの要因は,旅行家や冒険家による「僻遠の」地の「発見」に基づいており,その結果世界地図という「特定の場所からも地域からも『独立した』存在として確定していった」。
・時間と空間を切り離すことは,社会生活の中で時間と空間を再びつなげ直す基盤になりうる。時刻表は列車が何時にどこに到着するかを表す時空間を秩序付ける手段である。「その土地特有の時間」という文脈への「埋め込み」から解き放たれた制度は,時間と空間を超えた調整に依存する多様な変動を実現していった。
・このように,時間と空間の分離は(1)脱埋め込み,(2)合理化された組織の発展,(3)時間と空間の再結合による一元化された歴史的な記述(全世界で共有される過去)の形成をもたらす。
 
■脱埋め込み
社会学者は,伝統的世界から近代世界への移行を,「分化」「機能の特殊化」という概念を用いて論じてきた。こうした見方は,社会進化論的な見地に結び付きやすく,社会システムの分析における「境界問題」に全く留意していないし,機能主義の考え方に依拠している。さらに重要な点として,いずれの見解も時空間の拡大化の問題に十分取り組んでいないことが問題である。
・「時間と空間の分離と再結合」の脱埋め込みメカニズムは,≪象徴的通標の創造≫と≪専門家システムの確立≫に分けられ,いずれも≪信頼≫に依拠している。
・象徴的通標とは,「いずれの場合でもそれを手にする個人や集団の特性にかかわりなく「流通」できる,相互交換の媒体」を指す。一例として貨幣を取り上げる。ケインズは計算貨幣と本来の貨幣を弁別し,計算貨幣のうち「商品貨幣」が物々交換から貨幣経済へ転換する過程の第一段階を形作り,その後決済で債務の承認が商品そのものの代わりをするようになったときに,「銀行貨幣」になったとする。国民国家は貨幣と商品の交換価値を保証する役割を担うことになった。ケインズが論じた「貨幣」は,即時性と繰り延べ(目の前にあるものとないもの)を結びつけるために,時間と密接に関連付けてとらえられる。貨幣は時間をかっこに入れ,取引を個々の交換の場から切り離す手段になる。つまり,貨幣は時空間の拡大化の手段である。
ケインズジンメルは貨幣取引における信頼を「通貨発行政府に対して人々が抱く確信」として考えている。この≪信頼≫は信仰の一形態であり,何かあるものに対する傾倒を示している。
・≪専門家システム≫とは,われわれが暮らしている物質的・社会的環境の広大な領域を体系づける,科学技術上の成果や職業上の専門家知識の体系を指す。私たちは普段「専門家」と呼ばれる人に頻繁に相談することはないが,日常的に触れる様々な事柄の多くの側面に専門家は影響を及ぼしている。私たちは,専門家それぞれの人格ではなく,その人たちが用いる専門家としての知識を「信仰」している。専門家システム自体も,「当然そうなるであろう」という期待を「保証」することで脱埋め込みをもたらす。
・通常の行為者が専門家システムに対して一貫して抱く信頼のなかには,ジンメルが述べたような「根拠薄弱な帰納的知識」という要素を見出すことができる。
 
■信頼
ルーマンは,信頼は「リスク」と関連付けて理解する必要があるとしている。信頼はリスクの存在を前提にしているのに対し,確信はリスクの存在を前提としない(危険を前提とする)。しかし,いずれも期待が裏切られたり,はずれる可能性があることを指称している。
ルーマンは,信頼と確信を区別するように,リスクと危険を区別する。この二つは期待外れな結果になるかどうかはその人自身の事前の行動に影響されるかどうかによって決まるという。
・しかし,本論では,信頼は確信と異なるものではなく,信頼は確信の個別類型のひとつであると論じる。また,リスクも危険の個別類型である。なぜなら(1)信頼の要件は支配力の欠如ではなく,十分な情報の欠如であり(思考過程がすぐ見抜ける人をわざわざ信頼する必要はない),(2)信頼は偶然性と密接に関連しており,(3)信仰と確信を結びつける媒体であり(=つまり,「根拠薄弱な帰納的知識」のように状況についてある程度知っているから正当化できるというたぐいの確信ではない),(4)自身が不案内な原理の正しさを信じることであるからである。つまり,(5)確信が相手の人格や抽象的原理の正しさに対する信仰だとすれば,信頼とは「人やシステムを頼りにすることができる」という確信である。危険とリスクは密接に関連しているが,
 
■モダニティの再帰性
・伝統的文化において「過去」は尊敬の対象であった。伝統は行為の再帰的モニタリングを共同体の時空間組織に結びつけている様式である。伝統は,変化に何らかの意味をもたらす独立した時間的・空間的標識がほとんど存在しない状況に付随する。
・近代における再帰性は,システムの再生産の基盤そのものの中に入り込み,その結果思考と行為とは常に互いに反照し合うようになる。近代社会の有する再帰性は,社会の実際の営みが,まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味,改善され,その結果,その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すことができる。モダニティの特性は,再帰性が――その省察に対しても――見境なく働くことである。
・科学は一見確信できるものであると考えられがちだが,ポパーですら「科学は流砂に支えられている」という。社会科学は「省察の形式化された形態(専門的知識の特殊類型)」であり,省察はモダニティの有する再帰性全般の基盤をなしている。社会科学によって得られた知識は,行為者が自らの行為を明確に理解するために用いられることで社会に還元される。社会科学による知識と,そこから始まる現実は,再び社会科学のまなざしの対象になる。モダニティはそれ自体,徹底的かつ本質的に社会学的事象である。
 
■モダニティか?ポスト・モダニティか?
・「ポスト・モダニティ」という言葉は,社会発達の軌道が近代から新たな社会秩序類型に連れ去ろうとすることを意味している。しかし,実際には再帰性が徹底したモダニティでは,認識論の既存の「基礎」が実はすべて信頼できないことが分かり,何事も「大きな物語」に載せて議論できなくなっただけである。
・「ポストモダニティ」という議論は,歴史の中に物語を見出し,その中に私たちの居場所を定めていくことを祈願しているように思える。しかし,理性によって得られた既知の事実は,知の主張に完全で確実な基盤をもたらすことができなかった。
 
■まとめ
省略。
 
■感想
・ギデンズ自身は,「近代社会」を前提とした伝統的社会学理論の中でも,特にデュルケーム的な考え方(”科学としての”社会学,自然科学に倣う社会学)に対して懐疑的なのかもなと思う。
・教育社会学はこのギデンズの議論にどう立ち向かうのか。『暴走する能力主義』はギデンズを下敷きにして議論が進んでいるが,読むとやはり教育社会学自身が近代から抜け出せない学問なのではないかと思ってしまう。
・飽きてきたので続きはそのうち。